友人からこんなメッセージが届きました。
 

 

久しぶりに共通の友人のライブで会ったヤッチはとても元気そうでした。
「こういう楽しいライブが続けられるのも平和だからなんだよね」と
彼は言ってました。そう自分の暮らしの延長線上に「戦争」も「平和」も
あるんだってことだと思います。

彼からのイラクレポートが届きました。今回もまた長い文章ですが
ぜひ読んでみて下さい。( 原文のまま転載しました。)

 


  

親愛なるみなさまへ

 

こんにちは、YATCH(相澤恭行)です。
お待たせしました。イラクレポートがまとまりましたのでお送りします。
帰国後も毎日イラク情勢から目が離せません。今が正念場です。
この戦争をやめさせるために、最後まで決してあきらめず、
最大限の声をあげていきます。

愛と平和への祈りをこめて
YATCH 相澤

〜以下レポート〜


《イラクレポート》〜親愛なる人々の住む国を旅して〜

2003年2月16日〜2003年2月28日
“YATCH”相澤恭行

★転載・転送大歓迎です★

 





【【はじめに】
このレポートは、一介の市民にすぎない私が、第二次イラク国際市民調査団の一員として、
戦争をとめるという目的で開戦間近と伝えられるイラクに行き、そこに住む人々とふれあい、
自分の目で見てきたことを、感じたままに綴ったものです。


【イラク入国】
夜明け前、シリアのダマスカスから陸路バスでイラクへ向かった。果てしなく続く地平線の
彼方から太陽が昇り、一面の赤茶けた砂漠を照らし出す。時々砂漠の民、ベドウィンの
集落のようなものも見えるが、とにかく見渡す限り一面の砂漠。空は限りなく広く、ゆるやかな
時の流れのなかで心を澄ませば、大地の呼吸が聞こえてきそうだった。
初めての中東、そしてイラク。国境の税関では少し粉っぽいイラクコーヒーを振舞われ、以前
日本のイラク大使館に勤務していたという方をはじめ、係官の方々はみな陽気で明るく、実に
あたたかい歓迎を受けた。庭には名も知らぬ小さな花がいくつか咲いていて、小鳥のさえずりが
耳に心地よい平和そのものの雰囲気のなか、二、三時間ほどで難なく国境税関を通過した。
ヨーロッパからヒューマンシールズ(人間の盾)としてバグダッドに入り、予定の期間を終えて
車で帰国する途中だという一団と出会い、お互いに激励を交わし合う。
再び走り始めたバスの車窓から見た、地平線のあたりでゆらめき輝く蜃気楼は、遥かなる
メソポタミアの文明の記憶を映し出しているようだった。いま、現代の最先端の文明がその
古代の記憶を抹消し、大地との絆を断ち切ろうとしているとは、何たる歴史の皮肉であろうか。


【首都バグダッド】
イラクに入り、バグダットへ向かうバスのスピードが上がった。よく見ると道路が片側三車線に
なっている。湾岸戦争前は日本もイラクのインフラ整備に深く関わっていたと聞く。
ユーフラテス川を渡るころにはもうすっかり日も暮れて、ネオン輝く大都会、バグダッドに入った。
私はあまり車に興味がないのでよくわからないが、クラクションの喧騒を掻き分けて走るオンボロ
車の中には、マニアが喜ぶ古い型式の日本車も多いようだ。西洋人が描かれた看板も多く、
映画館の前では「LIFE AFTER SEX」などという露骨なものまであった。イスラム諸国の中で最も
西洋化が進んでいたというのもなるほどうなずける。やはりいたるところにサダム・フセインの
肖像画があり、そして「アメリカによるイラクの占領に反対する世界の青年たちを歓迎」といった
横断幕も各所に張られていた。今回、われわれ調査団はNASYO(非同盟学生青年機構)と
いくつかの団体の呼びかけによる「イラク戦争に反対する国際青年会議」(INTERNATIONAL
STUDENT ANDYOUTH FORUM)に招待されていて、世界各国からも様々なNGOの団体、個人が
それぞれの方法で平和をアピールするためにバグダッドにやってきていた。提供されたパレスタイン・
ホテルは五つ星の最高級ホテルではあるが、エレベーターの停止階の
ボタンを押しても点灯しなかったり、シャワーが出なかったりとメンテナンスが行き届いていない。
夜バグダッド入りしたときにはあまり気が付かなかったのだが、日中街を見渡すと建物のほとんど
が傷んだまま放置されていて、おそらく約20年は止まったままという印象。
本来ならば石油をはじめとする豊富な地下資源を活かして、イラクは中東で最も豊かな国になれる
という。だからいつも大国に狙われてしまうのであろう。湾岸戦争以来続く経済制裁による影響は、
こうした建物の老朽化としても如実に現れていた。


【カズミヤ・スークと人々】
基本的にはどこへ行くのにもイラク情報省や警察の同行が必要だったのだが、一度イラク人学生の
案内のみで、首都バグダッドで最も古いといわれるカズミヤという町を訪れる機会があった。砂埃
舞うスーク(市場)に降り立つと、ありとあらゆる日用品から食料などを売る店が、大通りから小さ
な路地に至るまでびっしりと軒を並べていた。日本で例えるなら上野のアメ横のようなところと言え
ばいいだろうか。食べ物はそれなりに豊富にあるようだが、売っている日用品等は中古のものが多い
ようだった。
クレヨンしんちゃんやドラゴンボールなど日本のキャラクターグッズもある。
とにかく大勢の人でごった返していて、まず驚いたというか拍子抜けしてしまったことは、人々の
間に戦争が差し迫っているといった緊迫感のようなものはまるで感じなかったこと。アメリカの攻撃に
ついてどう思うかと聞いても、「全てはアラーの手の中さ」といった楽観的な答えばかりで、悲壮感の
ようなものはまるでなく、とにかくみな底抜けに明るい。外国人が珍しいというのと、いま世界中から
NGOが来ているということを知っているせいもあるのだろうが、どこに行ってもみな笑顔で手を振って
くれる。子供達は一人、そして二人と、ぞろぞろ私の後をついてきて、気がつくとその友達でいっぱい
になり、写真を撮ってくれとせがまれる。靴磨きなどをして働いている子供達も多いが、ひたむきに
生きるその笑顔は見ているだけで楽しくなるほどかわいらしい。メディアが伝えたがる開戦前の緊張
とは無縁の、微笑ましく陽気な日常がそこにあった。
案内してくれた24歳のイラク人学生、ディアと帰りの車内で日本のアニメの話で盛り上がり、
すっかり意気投合してしまう。
イラクでも日本のアニメは有名で、アラビア語の吹き替えにより多数の日本アニメが放送されている。
実はドラえもんは初め黄色で耳もあったのだが、ある日ネズミに耳を齧られたショックで青くなり、
それ以来ネズミを怖がるようになったという秘話を話すとひどく衝撃を受けていた。
現在英語を専攻している彼は作家を志望しているというので、何か作品が出来たら是非送ってくれない
かと頼んだとき、ふと彼の前に立ちはだかる不確実な未来を思い、やるせない気持ちになってしまった。
戦争になれば、このような愛すべき人々の上に爆弾が降ることになるのだから。


【アメリアシェルター】
1991年の湾岸戦争でアメリカ軍の2段式ミサイルにより、一度に400人以上の民間人が死亡したと
いわれる避難所アメリアシェルターを訪れた。犠牲となった人々の顔写真と遺品が展示されていて、
そのほとんどは子供と女性である。真っ黒に焦げたシェルター内は、どこかでぶすぶすと煙が燻って
いるのではないかと思えるほどに爆撃当時の状態を維持している。天井に不気味に口をあけている
爆撃の跡からはやわらかな日光が注いでいた。床にべっとりと付いた血のりの跡もあり、一部の壁には
爆撃時の熱風で張り付いた人々の影が、まるで心霊写真のようにくっきりと浮かび上がっている。
あれは狙って爆撃した、いや誤爆だった、または兵舎があったところに民間人を集めていた、などの
主張があるようだが、いかなる理由にせよ戦争がもたらすあまりにも残酷な被害の跡ははっきりと
そこに現れていた。誤解を恐れずに言えば、犠牲者が自らの命を壁に描いて訴えた、究極の芸術作品
として。


【平和アピール】
世界各国から集まったNGO、そしてイラクの学生達と共にバグダッドの国連本部まで反戦平和の
デモ行進をした。皆思い思いのアピールの仕方で、「イラクに平和を!」と訴えると、それを眺める
バグダッド市民も喜んで声援を送ってくれる。いくつかの報道陣がいるとはいえ、こうしてイラクで
平和デモをすることに、どれだけ世界へのアピール効果があるのかはわからない。しかしすでに
20万人ものアメリカ兵に囲まれているここイラクの地で、声をひとつにして平和を訴えていると思うと
何か不思議な連帯感が生まれてきた。オーストラリアとトルコのメディアからインタビューを受ける
機会があり、「なぜ日本からここに来たのですか?」という質問に、私は「日本政府はアメリカ支持を
明言したが、日本に住む市民のほとんどはイラク攻撃に反対している。その声をイラクの人々に、
そして世界に届けるためにここに来た」と答えた。

一方でこうした盛り上がりとは裏腹に、日本大使館からは「内乱に巻き込まれて殺されますから早く
出てください」と再三にわたる退避勧告。長期滞在予定者には日本の実家から電話がかかってきた
という。なんでも外務省が帰国の説得をするよう各実家に電話をかけていたらしく、当調査団をひどく
誹謗中傷する内容のものもあったと聞く。
こうして戦争を行う勢力に易々と加担し、鼻持ちならない醜態を晒す日本政府の姿勢と、民族、宗教、
国家の違いを乗り越えイラクに集まり戦争回避に向けて奮闘する各国NGOの姿勢の違いが、滑稽な
までに浮き彫りにされていた。


【学校と子供達】
バグダッド市内のレカイルアサヒール幼稚園とマイス小中学校を訪れ、日本の子供達からの折鶴を
一人ひとりの子供達に配った。また私は個人的に、私の恋人が描いたイラストにアラビア語で平和の
メッセージを添えたカードを配った。幼稚園では英語の授業中で、「Table! Chair! Window!」などと
4歳の児童が皆大きな声を揃えて先生の指し示す教科書の図柄の名称を答えていた。イラクにとっては
敵対国の言語であるが、幼い頃から英語を勉強していたほうがいいと言う風潮は今の日本と変わらない
ようだ。
平和のために日本から来たと言うと、先生からヒロシマ、ナガサキの原爆の悲劇についての同情を寄せ
られた。小中学校では、はちきれんばかりの元気でいっぱいの子供達に囲まれて、一人がノートにサイン
してくれと言うので快く応じてあげると、次から次へとサインを求める子供達にもみくちゃにされて
収拾がつかなくなってしまう。困り果てながらも、日本ではありえない人気者ぶりに気分を良くして
結局ほとんどの要求に応じてしまった。
盛り上がると自然発生的にサダム・フセイン賛美の掛け声が始まるのには少々辟易したが、それでも
決して強制されているといった印象はなく、むしろ流行の歌のようにみな楽しんでやっているように
見えた。こうした子供達の屈託のない笑顔に接していると、「ああ、こうやって笑えばいいんだよな」
と、なぜか逆に教えられた気分になってしまう。


【結婚式】
今回の調査団にアラビア語通訳として同行し、7年ぶりの帰国となったイラク人のアリさんは、この度
婚約者ナガムさんとめでたく結婚することになり、彼の自宅での結婚式にわれわれ調査団一行も招待
された。「こんな時期に結婚式をするなんて、アリさんすごいね」と言うと、「全然すごくない。1998年
クリントンに爆撃されていた真っ最中に結婚式挙げた友達いるよ」とのこと。
祝いの歌と踊りはとめどなく続き、われわれも一曲求められて「森のくまさん」をアップテンポで披露。
大盛況であった。堅苦しい挨拶もスピーチもなく、宴は深夜まで続き、皆心から二人を祝福する。
とにかく彼らは疲れを知らず、放っておいたらそのまま朝までやっていそうな勢いだった。かつて日本に
もあった家族の強い結びつきと、祝うことの原点を再発見した。


【バスラでの空襲警報】
クウェートの国境に近い南部の都市、バスラを訪れた。この周辺は湾岸戦争後の制裁のひとつとして
設けられた飛行禁止区域にあたり、嫌がらせとも言うべきアメリカ・イギリス軍による防空施設等への
空爆がほぼ連日のように繰り広げられているところだ。あまり国際ニュースでは大きく報じられない
ものの、民間人の犠牲者もかなり出ているという。それでも街の雰囲気はいたって平穏で、バグダッド
よりお金をせがむ子供が多いのを除けば、街の人々を見ている限り緊張感はほとんど感じられなかった。
しかしその夜、ホテルの一室でイラクビールを片手にジャーナリスト関係の方々から凄まじい戦場体験
談を聞いているその最中に、突如として空襲警報のサイレンが鳴った。生まれて始めて聞く空襲警報に、
一気に緊張が走る。すぐさま窓の外を見渡したが、特に電気を消す家もなく、数分でサイレンは止んだ。
翌日の夜も再び空襲警報。幸い爆撃の音はなかったが、毎晩のようにサイレンがなる町に住む人々の
気持ちはどうなのだろうか。もはや何とも思わなくなるのだろうか。やはりこの国では戦争が日常化して
いるという現実が見えてきた。
バスラ滞在最後の日に、クウェート国境まで行きたいと頼んだのだが許可が出なかった。去年12月の
第一次調査の時は入れたというから、前回より緊迫しているのは間違いないのだろう。


【病院】
今回、三つの病院を訪れて、主に劣化ウラン弾の影響による白血病などのガンで苦しむ子供達を見舞った。
バグダッドのサダム小児病院では、毎日二人の入院患者がやってきて、毎日二人が死んでいくという。
泣き咽びながら看病を続ける母親がいる。その傍らで付き添いもなく一人ぐったりとベッドに横になっ
ていた子供は、主治医に聞くとあと二日ほどの命だという。突如として一人の母親が、「どうして戦争
なんかするのよ!」と叫んだとき、私には何ひとつ返す言葉が見つからなかった。戦争の被害と身をもっ
て闘い続けるこの生きた現実を目の当たりにして、言葉が全て気化してしまったのか、とにかくその現実
を受けとめるだけで精一杯だった。
どこの病院の先生に聞いても、皆口をそろえて「とにかく薬が足りない」と言う。バスラの産科小児科
病院とサダム教育病院で先生に聞いた話では、経済制裁のため国連からは必要量の40%しか薬が届か
ないうえに、僅かでも化学兵器に転用される疑いのあるものは認められないらしい。仮に別のルートで
薬を届けたとしても、基本的には使用前に厚生省の検査が必要で、それがなんと6ヶ月もかかると言うのだ。
こうして助かるはずの命が次々と亡くなっていく。ガンによる死亡率は80%で、スイスでは6%だと
いうからその高さに驚かされる。これは国際社会による静かなる大量殺戮ではないのか。ガンの発病率は
とくに湾岸戦争後5年ほど経ってから急激に上がり始め、今や湾岸戦争時の約11倍だという。潜伏期間
から考えてもアメリカ軍がばら撒いた劣化ウラン弾が原因なのは明らかだ。また、通常は老人にしか罹ら
ない種類のガンが子供にも罹るようになったり、一人で二つのガンに罹ったりするケースも急増しているという。
もし戦争になったらどうするのか、何らかの準備はしているのかという質問には、「なにもないしどうする
ことも出来ない。発電機と2、3週間分の薬の備蓄で、出来る限りの治療を続けるだけだ。しかし戦争が
始まれば、治療が必要な人も病院に来ることが出来なくなってしまうだう」と。
最後に見舞った17歳の少女ダラールは、劣化ウラン入りのクラスター爆弾に被弾した影響で、約一ヶ月
前に左脚を太腿上部から切断する手術を受けたばかりだった。「欲しいものは何もない。平和だけあれば
いい。将来は先生になりたい」と、しっかりと前を見据えて語るダラールの表情は、誇り高く、気品と
自信に満ちて輝いていて、その瞳には「生きる」ことのすべてが映し出されていた。


【子供の墓場】
バスラには子供用の墓場がある。特別な囲いがあるわけでもなく、所々雑草が生えゴミが散乱する
広場に、まるで赤ん坊用にあつらえたようなベッドの形をした小さな墓石が身を寄せ合うようにして
並んでいる。煉瓦造りのものもあれば、石膏であろうか真っ白なものもあって様々だがどれも同じ方角
を向いていた。
バスから降りると墓場の一角に人が集まっていて、一人が墓石ほどの小さな穴を掘っていた。ちょうど
埋葬の準備をしているところだったらしい。墓場の隅には煉瓦と土の壁に囲まれた小さな祭壇のような
場所があり、中では男が二人、おそらく死産だったであろう小さな小さな嬰児の体を水で清めていた。
傍らには呆然とその様子を見つめる母親。中央の四角の台座に真っ白い布が敷かれ、清められた
嬰児がゆっくりと包まれていく。曇り空からやわらかな陽光がこぼれ嬰児の顔を照らし、遠くからは
子供達のはしゃぎ声。男達は終始無言で布を巻き続け、終にはキャンディの包み紙のように嬰児の
全身が包まれた。「ベイビー!マイベイビー!」突然その沈黙を破る大きな叫び声がしたかと思うと、
父親と見られる男が泣きながら墓地を指差していた。こぶしを振り上げ「ノー、ノー、ブッシュ!」と
半狂乱になって全身で怒りを表し、しばらく叫び続けたあげくに頭を抱えてしゃがみこんでしまった。
またしても失語症に陥った私は、ふらふらとその父親の前に立ち、気が付くとお互い涙で顔をくしゃ
くしゃにしたまま強く抱き合っていた。「サンキュー、サンキュー!」と父親は言った。私は彼の震え
ながらも力強いその声の奥底に、ここイラクに生きる人々の魂を感じ、壊れそうになりながらもなんとか
全存在で受けとめた。
振り返ると子供達が、満面の笑みを浮かべ大はしゃぎで近づいてくる。あまりに強烈な生と死のコント
ラストに、私という儚い存在はしばしたじろぎ、直視することができないほどだった。「死」が恒常化
しているこの国で、「生」は限りなく力強い。あまりに美しく、またあまりにも残酷な存在の調和がここに
あった。


【おわりに】
滞在中に戦争回避決定の祝杯をあげることは出来ず、開戦の危機は日ごとに高まっいた。
私は一時本気で滞在の延長を考え、帰国便のリコンファームもしなかったが、通信機器に乏しく現地から
の情報発信が困難な自分にとっては、こうして知ったイラクの人々の話を日本に帰って伝えることが
大切だと思い、予定通りに帰国の途についた。戦争をとめるために日本でできることを最大限実行したあと、
可能ならばもう一度イラクに行こうと思っている。私はまだ戦争は回避できると信じているからだ。
私はイラクで誰一人救うこともできなかったし、わずか二週間にも満たない滞在では、イラクという国の
限られた一面しか見られなかったのは否めない。しかし私は今回出会ったイラクの人々に、たくさんの
勇気をもらった。今では年間3万3千もの人が自殺するようになってしまった日本ではみんなどこかに置き
忘れてしまった、人間がほんとうに幸せに生きるために必要なことを彼らはたくさん知っていた。私はこれ
まであまりにも彼らのことを知らなかったし、これからももっと彼らを知り学んでいきたいと思う。
そのためには彼らとのさらなる対話が必要であり、今回私がイラクに行ったことは、その対話のきっかけを
つくる第一歩だったと信じている。
これからも彼らと対話を続け、友好を深めていくためには、平和がどうしても必要なのだ。
そして一日も早く経済制裁を解き、イラクの人口の半分以上を占めるという子供達と未来を共有していき
たい。それはきっと現代の文明に生きる我々を蝕む病を癒すことにもつながるはずだから。
親愛なるイラクの人々の頭上に爆弾を落とすだけではなく、我々の未来をも破壊するこの戦争を、絶対に
許してはならない。


〜レポート終わり〜

 

友人からのメッセージ


 

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