小島史郎R&R伝説
Bye-Bye Kozie, Bye-Bye Kozie B. Goode♪



 


ペリカンオーバードライブ(2002.4.26 at VUENOS TOKYO BAR)




  
ザ・ポテトチップス、SAILIN' SHOSE、金谷ヒデユキ、ワタナベマモル &THE DAViES、
  エラーズ、ペリカンオーバードライブ、AQUARIUM、きんばらしげゆき&THE 歌宴団、
  などで活躍したギタリスト、コジーこと小島史郎氏が、2005年1月12日午後8時36分、
  肺がんの為この世を去りました。シャイで、酒が好きで、女好きで、時間にルーズな、
  まさにロックンロールを絵に描いたような本当に素晴らしいギタリストでした。心より
  ご冥福をお祈りします。

  そしてここは「小島史郎」という最高のギタリストがいたことを後世に語り継ぐ為に、
  勝手に立ち上げた、ある意味コジーのファンサイトです。
  



Bye Bye Kozie

2005年1月5日(水)仕事終わりにケータイを見ると着信とメールがあった。
「小島くんの容態が急変して入院(PM6:35)」と友人からだった。
それを見たのは夜の10時過ぎ。慌てて仕事先から病院に電話をすると、
「面会時間は過ぎていますが、小島さんなら来ていただいてけっこうです。」
、、、はぁ?それってどういうこと!?、、、それヤバイじゃん!

病室に駆け込むと、吸入器が上手くはめれず苦しそうなコジーがそこにいた。
「コジー、大丈夫?久しぶり!」声をかけると、辛そうながらも「よう!」とでも
言わんばかりに、こっちを指さしてちょっとだけ笑ってくれた。よし、意識はある。
少し希望が持てた。


思えば一年くらい前から不調は訴えていた。その度に「一度検査を受けた方が
いい。」と言い続けて来た。でも本人は「大丈夫だから」となかなか病院に行こう
とはしなかった。自分も偉そうなことは言えないけど、コジーは昔から大酒飲みで
飲み出すとエンドレス。いつまでも飲み続けちゃうし、食べないし、寝ない・・・。
(でもそれは変に気を使う性格故、 飲んでないと会話に“間”が空いちゃうのが
嫌だったんじゃないかとも思う。たぶん。まぁ、酒好きには変わりないけど・・・)
そんな生活ぶりだったんで、大丈夫なはずがない!とずっと感じていた。実際
あんまり昔みたいなノリはなくなっていたし・・・。

「関節が痛い」とやっとのこと検査に行き、「結果待ちだ」って言う辺りから
徐々にその行方がわからなくなり、メールをしても返事が滞るようになって来た。
その検査結果も結局、人伝いに聞くことになるんだけど、それが果たして信用
出来る情報なのかどうかもわからず終いで、いきなり「末期」と言われても当然
信じられるわけもなく、そのうち情報だけがどんどん錯綜していった・・・。
それが去年の6月のことだった。


でも病室に入った時点で全てが飲み込めた。行方不明だった理由も、そして
オレ達についていた嘘の事も・・・。

病院には「いてもたってもいられなくて」という人達が続々と駆け付け一時騒然と
なった。結局その日は友人ら数人で病院に泊まり、それがこれからの長い激動の
一週間の始まりとなった。






とにかく淋しがり屋で、「今友達と飲んでるから」とよく呼び出された。(嬉しかった
けど)そういう場で人と人を紹介して勝手に結び付けておいては、その当人同士が
仲良くなるとちょっとスネる・・・(笑)そんな人だった。
そのくせトラブルを起こして疎遠になっちゃうのも自分からで、その都度強がりめいた
事を言っていたけど、本心はやっぱり淋しかったんだと思う。素直に謝っちゃえば
いいのに、それが出来ない不器用な、それでいて頑固な人でもあった。


コジーとの出会いは約10年前、クラブチッタ川崎のレーベル「CITTA' RECORDINGS」
の第3弾アーティストがSAILIN' SHOSEで、コジーは当時そこに在籍していた。
自分が第4弾として同レーベルからアルバムを発表することが決まっていたという
経緯もあって、そのSAILIN' SHOSEのツアーに前座として同行させてもらえることに
なった。
大阪でのライブの前日、前乗りしたその足でメンバーに挨拶しておこうと某ホテルの
一室へ赴いた。
トントン!「失礼しま〜す。明日からお世話になります。弾き語りのきんばらです。
よろしくお願いします。」

忘れもしない。その時目の前の化粧台に頭に白いタオルを巻いたコジーが座っていて、
いきなり「おー、よろしく!まぁ、飲みなっせ!」と紙コップに日本酒を注いですっと渡して
くれた。それで一気に緊張がほぐれたのでした。他のメンバーもいい感じに酔っ払って
いながらも暖かく迎え入れてくれ、しばらく部屋で一緒に飲んだ、、、ような気がする(笑)

もうひとつコジーらしいエピソードを。大阪の翌日、名古屋ELLでのこと。
搬入後、リハーサル前にギターの弦を張り替え、チューニングを済ませ、なにげに
ストーンズの「アンジー」のイントロを弾いたら、もうすでにスタンバっていたコジーが
ソロを弾いて絡んで来た。びっくりしてそっちを見ると、ニヤっと笑ってピースをして
くれた。そういう男だった。

それからは本当によく飲み、よく歌った(カラオケ・・・笑)。その後間もなくして自分の
ライブのサポートも務めてくれるようになり、数々のステージを共に踏むことになる。
レコーディングもしたし、一緒にツアーにも行った。本当に楽しかったしコジーとの
ライブはいつもエキサイト出来た。


とにかくコジーを知る誰もが認めていることだけど、彼の弾くギターはまさに天才的で、
どんなジャンルもそつなくこなし、自分の弾き語りの曲もコジーのギターアレンジが
加わると、二人なのにまるでバンドみたいだった。それはやっぱりロック的だったり、
はたまたブルースだったり、時にジャジーだったり、それでいて歌謡曲だったり(笑)
弾き語りだからといって決してフォーク調にアレンジしないそのセンスに感動したし、
なにしろ自分とのライブにしろ、誰かのサポートにしろ、その引き出しの多さには
毎回驚かされた。本当に素晴らしいギタリストだったし、アレンジャーだった。






実は入院したその日から「持って2、3日」と医者からは宣告されていたらしい。
でも入院2日目からコジーは脅威の精神力で持ち直し、意識もはっきりしてきた。
逆にそのことで本人が「元気になってから会いたいから・・・」と言い出し、本人の
意思を尊重しようということで、それがずっと面会出来なかった理由でもあった。

面会出来ないとわかっていても、連日ものすごい数の人達が病院を訪れた。
そして何にも出来ない虚しさと苛立ちの中、それでもなんだか傍にいたくて
不謹慎だとは思いつつも、近くの居酒屋で飲んで語ったりもした。
ある時は暴露話しに怒り、笑い。そしてある時は30代後半の男どもが周りの
迷惑も省みず、大声で泣いた。その中には10年以上も音信不通だった人も
何人かいた。


意識がはっきりしてきたということで、やっぱりコジーには音楽を聴かせてあげよう
ということになり、みんながそれぞれ思い思いのCDを持って来た。
病室にはずっと入れなかったんで聞いた話だけど、コジーは曲に合わせてギターを
弾く真似をしたり、アンプを調節する仕草をしたり、鼻歌を歌ったりしていたらしい。
その鼻歌が主旋律じゃなく、ハモりのパートだったという話を聞いた時は思わず
ニヤけてしまった。

「これは長期戦になるかもよ・・・?」とみんなと話し合ってその日は別れ、自分も
久々に自宅でゆっくり過ごしたその翌日、朝11時。ケータイの着信音で飛び起きた。

「小島くんの意識が遠くなって来ちゃってるんで、会いに来て声をかけて欲しい!と
御両親がそう言っている・・・。」

「なんだよ!長期戦だろ?」とボヤきながら慌ててまた病院に向かった。






病室に入るとコジーは一週間前初めて来た時よりも相当キツそうだった。
でも声をかけると目をかっ開いて反応してくれた。何か言おうともしていた。
「コジー頑張って!」気の利いた言葉もかけてあげられずに病室を出た・・・。

知らせを聞きつけて続々と途切れることなく彼を慕う人達が集まって来た。
一人ずつだと大変だからと4〜5人ずつで会ってもらった。その中には何度も
訪れているのに、この時入院後初めてコジーに会えた人も何人かいた。

「一日で数十人もの人達と一度に会って疲れが出てしまった・・・」ということで、
この日は7時で面会を打ち切った。成す術もなくただ黙って待合室でじっとして
いることしか出来なかった。
「いったいオレは何を待っているんだ?」と自分を責めたりもした。

そうこうしているうちに面会時間終了の8時になってしまったので病院を出た。
それでも到底帰る気にはなれず、とりあえずご飯でも食べておこうと店に入り
注文して間もなくのことだった、、、、、

「みんなで小島くんのところへ戻ろう・・・・・・」


まったく理解出来ていなかった。
泣き崩れている人もいたけど、その時点ではまったく理解出来ていなかった。
信じたくなかっただけかもしれない。それでもただ事じゃないことは飲み込め
たんで、急いで病院へ戻った。

病室の扉は開いていて、その瞬間その事実をただ受け止めるしかなかった・・・。


2005年1月12日、午後8時36分。小島史郎永眠。享年40歳。



illustration by TAIZAN






一度帰りかけた人達もみんな病院に戻って来た。みんな泣いていた。
少し涙は出たけどみんなみたいには泣けなかった。自分は冷血人間だと思った。
みんな涙をこらえながらも「漏れないように」と懸命にケータイで連絡を取っていた。

しばらくすると、なぜか御家族の方達も外に出ていて病室に誰もいない状態があり、
看護婦さんが、「この時間にぜひ会ってあげて下さい。」と言ってくれた。
おかげでそこにいたみんなは一人ずつゆっくりお別れをすることが出来た。
「何て言えばいい?」と思いながら順番を待っていたけど、いざ自分の番になると
やっぱり口から出た言葉は「ありがとう」だった。「今まで本当にありがとう!」
そう言えたらようやく涙が溢れて来た。その後はタバコを吸いに行っちゃったんで
よくわからない。・・・っていうかあんまり覚えていない。


コジーが車に乗って告別式の会場に行っちゃった後、ペリカンオーバードライブの
マスちゃんらと帰れない、帰りたくない組数人で朝まで飲んだ。ずっと禁煙して
いたコジーの分のタバコをつけて、ビールを注いで、、、「コジー、お疲れ様!」
とにかく飲むしかなかった。4人でアホみたいに飲んだ。


始発で帰っては来たけど、なんだかまだ帰りたくなくて、これもコジーに紹介して
もらったお店「ネブラスカ」に向かった。中野駅で降りて明け方の線路沿いの道を
高円寺方面に・・・。
一人で歩き出したとたん、涙が込み上げて来て止まらなくなった。いろんな場面が
フラッシュバックして来てもうどうしようもなかった。「もう会えないのか」と思ったら
淋しくてたまらなかった。
その途中にコジーがずっと住んでいたアパートがあって、その前に立ち止まり
しばらく泣いた。そして手を合わせた。

店はやってなかったけど、マスターと二人でちょっとだけ飲んでネブを後にした。






その日は朝からずっと冷たい雨が降り続いていた。斎場に着くとストーンズが
流れていた。「いったいオレ達は何をしてるんだろう?」そんな感覚に襲われて、
まるで現実感がなく、なんだかとても不思議な感じだった。
遺影もザ・ポテトチップス時代のポーズをとったアー写で、格好いいけどちょっと
笑えた。

告別式には2日間で300人もの人達が駆けつけた。そのほとんどが彼の音楽
仲間であり、そしてファンでもある人達だった。ずいぶん会っていなかった人達
とも多く再会出来た。そこにいたほとんどの人を知っていることに自分自身驚い
たけど、みんなコジーがきっかけで出会って、今こうしてまた会ってるんだなぁ・・・
と改めて思った。このことは本当に感謝している。


「兄は自分にとってもギターヒーローであり憧れでした。でもそれと同時に
どうしようもないロクデナシでもありました。(中略)それでも兄の事を忘れないで
いてあげて下さい。」喪主の実弟さんのあいさつが染みた。


「それではみなさま、お花を添えて故人との最後のお別れになります。」
場内アナウンスと同時に、奇しくも「You Can't Always Get What You Want
〜無情の世界〜」が流れ始めた。

花を添えてあげた後、ジャック・ダニエルでそこにいた全員で乾杯をした。


自分も棺桶を持たせてもらい、黒い車にコジーを乗せた。そのまま流されるまま
バスに乗り込んだ。後で友人から来たメールで知ったんだけど、その時会場では
「(I Can't Get No)Satisfaction」が流れていたらしい。

雪にこそならなかったけど冷たい雨はずっと降り続いていた。






コジーは本当に天国に行ってしまった。「もう会えないんだ」と思うとやっぱり淋しい。

コジーは自分からギャグとかを言うタイプではなかったけど、笑いのツボが一緒だった
んで、今思うといつもコジーを笑わせようと躍起になっていたような気もする。コジーが
楽しそうだと場が盛り上がり、楽しい時間が過ごせたし、旨い酒が飲めた。
だから逆にコジーのバッドな部分は見たくなかった。見て見ぬフリをしてしまったことも
正直あった。それでも友達としてと思い、勇気を出してダメ出しをしたことも何度かあった。
でもそういう時は度々、逆ギレされたり、開き直られたりして悔しい思いもして来た。
そんな事が原因で、実はここ2年くらい少し距離が出来てしまっていたのも事実で、
それが悔やまれてならない。偉そうな事ばっか言ったけど結局、何もしてあげられん
かったなぁ。「コジー、ごめんよぉ。」


抗がん剤を使わず健康食中心の自宅療養だったにもかかわらず、今年になるまで
一度も入院してなかったらしいし、去年の11月までいつもの様にライブでギターを
弾いていた。これはすごいことだと思う。そのおかげでライブ会場で会えたし、
打ち上げで一緒に少しだけだけど飲めたりもした。立って弾くのがちょっと辛そうでは
あったけど、ギタープレイは相変わらずだったし、コジー・ステップも健在だった。
でもやっぱり病気のことは深く聞けなかった。聞いても本人は「大丈夫だから」としか
言わなかったし・・・。






最後にこんな事を書いてどうか?とは思うけど、これを言わないと収まりがつかない
部分があるので・・・。

「コジーは幸せだったんだろうか?コジーはそれなりに満足だったんだろうか?
コジーはここ数年、何かをやり遂げたっていう感覚があったんだろうか?」

やっぱりついそんな事を思ってしまう。誰もそんな事はわからないんだろうし、
余計なお世話だろうけど、ずっといろんな事を誤魔化し続けて来たような、
そんな気がしてならない。ある時期、もうずっと一緒にいてそばでいろいろ見て
そう感じたし、現実逃避をして来たという点においては自分自身にも思い当たる
ふしが多々あるだけに余計にそう思ってしまう。

あれだけのギターが弾けたのに、どうしていろんな事をあきらめちゃってたんだろう?
心の中の本音を一度ちゃんと聞いてみたかった。もう遅いけど・・・。


あれだけのギタリストを失ってしまったことは本当に残念なことだし、大好きな
友達を失ったということはとても辛いことです。でもベタな言い方だけど、
こうして残された自分達はそういうひとつひとつを乗り越えて行かなきゃならないし、
ちゃんと受け入れて次に繋げていかなきゃいけないんだと思います。
いい所は見習って、またそうじゃないと感じた所は「自分だったら、、、」って
そんなふうにやっていくしかないもんね!


あー、もういっぱい泣いたからいいや。
ねぇコジー、オレが曲作りやギターに煮詰まった時は力貸してよ!
いろいろあったけどホント楽しかったね!いろんな思い出全部ひっくるめて
もう一度お礼を言わせて下さい。

「本当にありがとう!コジーに出逢えて良かったです。」

安らかに、、、は眠ってないんだろうなぁ(笑)
今頃誰とセッションしてんのかねぇ!?ジミヘン?それともカーティス?
もしや憧れの松原みき!?調子こいてそっちであんまり飲み過ぎんなよ〜!

                        

 

んじゃしばしバイバイ、コジー!でもすぐには行かないぜ!(笑) 


2005.1.31  きんばらしげゆき

(※この文章を書き上げる為に様々な方々の日記やコラム等を参考にさせてもらいました。
無断で一部転載してしまった箇所や類似した表現があり、御迷惑をおかけしました事を
この場を借りてお詫び致します。申し訳ありませんでした。)








◆こちらにも関連コメントがあります。ぜひご覧下さい。
●SING A SIMPLE SONG/MAMORU & THE DAViES
●オグラのひみつ/オグラ
●The Artistformerly Known As SNUFKIN/金谷ヒデユキ
●泰山堂/TAIZAN
●DROW THE LINE 線引き屋/河田拓也(ばくはつ五郎)
●Charles a Go Go/Mr.チャールズ(ワッツタックス)  

 

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 ★Kozie's discography
 2005.2.1 「小島史郎」ファンサイト オープン
  ※2005.2.2 確認&修正、リンク追加
  ※2005.3.6 確認&修正、「お詫び」追加

 

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